嘘かどうかは誰が決めるか

とんでもない嘘をつきながら、それがバレることなく平穏無事に生活を続ける、そんな経験はありますか?

 

私はあります、どうも田中です。

 

 

「嘘も方便」という言葉がありますが、時として人は嘘をついて物事をスムーズに運ばせなければいけない時があります。しかしながら、「嘘をつくこと=良くないこと」という教育的刷り込み(もちろんこれは悪いことではありません)が大前提としてあるために、人は自分のついた嘘に耐えきれなくなることが多々あるのです。

 

 

小学生の頃であれば誰もが1度は経験したことがある宿題忘れ、苦し紛れの言い訳で「やってはあるけれど持ってくるのを忘れた」が代表的ですが、学校の先生や我々のような塾の講師は、家について確認しに行くことまではしませんのでその発言を信じるかどうかになってきます。期日までに提出できていない、というのは大人の世界ではもちろんやっていないことと同じですから認められないのですが、社会に出るための練習の場である教育段階では、その発言がどういった結果をもたらすのかを学ぶ場でもあります。

 

見逃す先生であれば、それに味をしめて同じ言い訳を使う(賢い者なら毎回同じだとバレるから時に混ぜて使う)んですが、どっかしらでとがめられる時がきます。

 

 

多くの場合、そこでゲロして終わるんですが、稀にうまーく乗り切るやつもいたり。

ただ乗り切れても結局宿題をやってないという学力的なマイナスがどこかしらで影響してやってないことがバレて、そうなってくると1番隠したい親にまで情報がいって散々な目に合うってのが相場です。いわゆる自業自得。

 

 

人間はそうやって小さな失敗を経験しながら成長していく(そんな言い訳が通らないことを学ぶ)んですが、一方で嘘のつき方も巧妙になっていきます。

よりバレない嘘、より上手な嘘ですね。それを人は「方便」というわけです。

 

 

しかしながら、大人になっても嘘のつき方が下手だったり、そもそもその嘘を墓場まで持っていけない、とても残念な方々もいらっしゃいます。

 

 

どうせ嘘としてバレるレベルのことをする、なんと間抜けなことでしょう。

嘘の重みに耐えかねて楽になろうとする、なんと愚かなことでしょう。

 

 

 

最後まで嘘にならない、決して表に出さない強さを持ってほしいものです。

 

 

 

各教科の小テストが良い例ですが、嘘の点数を報告しようが、丸付けでごまかそうが、カンニングしようが、別にいいんですよ。

ただし、その嘘で獲得した成績は、「嘘」にならないようにしてくれればよいだけで。

 

 

 

嘘を隠し通せるだけの強さ、もっていますか?

 

 

 

それがないのであれば、愚直にやり続けるしかないですよ。

 

 

きっと誰かには刺さるであろう、そんな嘘のお話でした。